
福岡・柳川の歴史と尊壽寺
九州における日蓮宗の広まり

現在、九州には当山を始め各地に日蓮宗のお寺が存在しますが、その歴史を辿ればかつて「九州の導師」として指導にあたられていた日親上人の存在があります。
日親上人は、応永14年(1407年)上総国(千葉県)にお生まれになり、中山法華経寺(千葉県市川市)にて出家。19歳で「西海松尾山総導師」に任ぜられて九州熊本に掛錫したのを皮切りに、各地で布教活動を行う中で九州の地においても自ら寺院を開基する他、布教や法難の場所が後に寺院となるなど、九州における日蓮宗の布教に多大な影響を与えられました。
日親上人は「立正治国論」を起草し、時の将軍・足利義教に対し政道を諌めたことによる投獄・拷問に遭いながらも信仰を翻すことはありませんでした。権力にも屈することのないその強いご意志が布教活動の礎となったことは想像に難くなく、その肖像は後に「攘災招福」の仏として信仰の対象となり人々に親しまれました。
立花宗茂公創立の菩提寺
当山の歴史は、筑後国柳河藩初代藩主である立花宗茂公に縁があります。当山の寺号「尊壽寺」の由来となったのは、宗茂公の伯母君である尊壽院殿です。
尊壽院殿は「大友菊姫」と言われ、豊後(大分)国の大名・大友義統の正室でありましたが、豊臣秀吉による朝鮮出兵後の改易により夫への同行も許されず、幼子を連れながら旧領の地を放浪する身となります。その時に尊壽院殿が頼ったのが、甥である宗茂公でした。
当時柳川城主であった宗茂公のもとに身を寄せることとなった尊壽院殿でしたが、1594年に亡くなります。はじめは禅院で埋葬されたものの、熱心な法華経信仰者であった尊壽院殿のため、当時「本浄寺」であった当山を「尊壽寺」とし改葬、宗茂公より現在の場所を賜り本堂を置くこととなりました。
以来、尊壽寺は「領内最初の法華の寺」として現代に至ります。


